本多裕樹 白銀の夜明け

芸術の書

第一章 美学

1、美学とは

この度は、美学とは何かについて私のできるかぎり書いてみようと思います。

美学とは、哲学の部門のひとつで、絵画、彫刻、建築などの美術、小説、詩、演劇、音楽などおよそ人が作ったものに放つ何かしらの芸術作品の研究でもありますし、はたまた、普段の生活での心の心情にある美しき生き方も美学になると思います。

本当は、美学を「感性学」と言ったりします。感性で感じる学問のなかに美意識などが学問としてあるのです。本当なら、美学、すなわち「感性学」は、その運動が自由すぎて理性の範囲を超える場合があるために、学問という定義つけができないということもありますが、あえて学問として定義つけなくても、感性で感じる感動でこの話を進めていく事もいいことです。

私はなるだけ学問と芸術の真ん中に立って行こうと思います。芸術を志す者にとって、なにか絵を描き、粘土をこねて彫刻をつくる方でも、詩を書いている人でも、音楽を演奏したり、作曲したり、なにかしらの人によって個性における自分なりの表現における哲学があると思います。

その哲学に関してはいろいろ段階があると思います。美学は、先ほども言いましたが、感性における学問、「感性学」です。感性でいかに美を発見するかが大事なのです。美は、この日々の生活にも、人生の中でも、自然の中に美は発見できます。芸術家があるふとした瞬間の発見に素晴らしい図の構想があります。それは感性で見つけていくのです。感動があるのです。そして、それは神に向かっていく旅でもあるのです。

普段ふとした風景や、美の中には、天国の思い出があるのです。その風景の聖地にはなにかしらの霊的な足跡があるのです。芸術は精神から生まれます。

観念の無意識から作家がキャンバスや粘土、原稿用紙に世界を再現するのです。美学の究極の理念がここにあります。それはイデアという理念があります。イデアは、「真・善・美」であります。真実なるもの、善なるもの、美なるもの、があります。それがトータルで再現するのでなく、われわれ一人一人において人によって違うのです。「真実」を追求することが強い人であれば、善も、美へとつながって行くでしょう。

「善」が強い人でも、真実と、美がそなわっていくでしょう。「美」が強い人でも、真実と、善がこめられていくでしょう。なので、人によってバランスはさまざまです。あと、美を追求する中で、善も悪も超えていく認識もあります。

それはいかに自由になれるかでその悟りを得る事が可能となります。最高の善もあります。最高の真実もあります。美意識による悟りもあります。イデアは、神の世界であり、神の世界から、芸術を引いてくるのです。求めていくのです。求めていく中に芸術の精進がありますが、あまり真剣にやっていると心も煮詰まってしまいます。なので、これは重要なのですが、ゆとりを持つ、自由になって行く、道に遊ぶことも大事であること、究極的には、より自由になって行く、自由になりながらも芸術家であることを芸術家としての礼儀をしっかり心の内にしみこませて行きます。

自由の中に本当の悟りがある。天真爛漫になっていく。人間にとって一番幸せな状態は、天真爛漫で子供のような生き方が大事なのです。社会は子供に眼鏡をかけさせます。その眼鏡をはずして子供のようになっていくくらいになっていくと、本当に芸術や文章のインスピレーションが次々と降りてきます。

美は、かしこまった中にもあるかもしれませんが、それもたとえば茶の湯の修行の中にも子供じみたものの感じはあると思います。自由な感覚と、天真爛漫な自分を発見する中で、イデアから、天上の国から、美が降りてきます。心に邪心の無い澄んだ心にしていく旅の道すがら、美の天使はやってきます。最初、学問のことを言いましたが、眼鏡をはずすと本当に美しい世界が見えるのです。盲目の人はイメージ力があります。見えないものが見えるのです。

なので、美を発見しやすいのです。美は天上にあります。美はすでに存在しています。神のお作りになったもの、神の世界に美はあります。それを地上の私たちがキャッチするには、常に天真爛漫で澄んだ心で生きる事です。

芸術作品を作る事は神が天地創造をして、宇宙をつくったように芸術を作り、美を作る事でそれは神の仕事です。そして、私たちもそれができるのです。人間は神の子どもです。神の分身として創造された私たちだからこそ、自由意思があり、創造の自由もあります。美はあなた方の中に内在しています。

そして、あなた方の心に天国と通じる道があります。その道を清め誠実に歩み綺麗な心で生きていくには、天真爛漫であることです。美は、私たちの心の中にあるのです。美を創造できるのです。美を作る事ができるのです。創造は神の仕事です。

私たちは、神の子どもです。どんどん美を創造して、世の中を浄化し世の中を善くしていくことができるのです。つまり美学は、美は、私たちが再現し、世の生活を善くしていくのです。そして、芸術作品は世の中に幸福をもたらし、ゆとりを作り幸福を広げていくのです。それが芸術の使命であり大事な可能性です。美学は芸術を促進させる可能性となっていくことでしょう。

  

2、精神面から

芸術の精神は自由であること、とくに芸術の中で精神と通じていくには音楽がわかりやすいと思います。音楽はいつも抽象的です。音楽は眼に見えませんが、しかし、その音楽の中に物語や精神がとても心に具体的な感情となって存在するようになって行きます。

   

芸術を志す者は、天真爛漫である必要があります。精神の中に天上をつながる可能性があります。音楽は霊的なものです。言葉にも言霊があり、絵には言い知れぬ波動があります。芸術体験の中に、霊的なエネルギー生命があります。いい言葉、わるい言葉は、どちらも作る事ができます。音楽でも霊的な波動を込めることができます。

精神は常に天真爛漫であることで心も澄んでいくでしょう。芸術活動をしていくなかで音を感じていきます。音の中にイデアがあります。 画家も詩人も、天上のイデアマテリアルが降りてきます。イデアマテリアルをキャッチして、それを解凍していくと作品のあらましがイメージに思い浮かべる事ができます。それが作曲していくイメージになります。小説の物語のイメージのストーリーが開かれていきます。

芸術の精神は、天上のイデアであります。

その精神は、天とつながることで、地上に芸術作品を作って行きます。 ちょうど芸術家の精神は、預言者のような役割をしていると言えましょう。 あと、天上の美を降ろすにも、地上にある問題を表現することもあります。 時代の雰囲気か波動を受けて作品を作る事があります。 天上の美を降ろす精神であっても、時代の精神の影響を受けて作品に出てくる事がある。あと、肉体的な可能性によって作品も変わって行きます。

肉体が健康か不健康かによっても変わることもある。 なので、美学における精神も、いろんな要素や影響によって作品ができます。

美学は美学としてイデアの精神ですが、地上にあるアーティストの精神状態と社会や肉体の健康度によって最初のイメージと違ったものになる事もあります。あと、イメージを再現するにしても、材料やアーティストの技量によって最初のインスピレーションのイデアマテリアルが、100%から40%になる事にあると思います。40%表現できればいい方です。 インスピレーションをパーセンテージが高いのはやはり音楽ではないかと思います。音楽は思いどおりに楽器を使えれば、自由に表現可能でしょう。天から聞こえる天使の楽器の演奏と歌の合唱を聴き、それに流れて音楽を流して行けばいいのです。 美学における精神は、やはり天真爛漫で天上からのイデアを素直に受け、無限にも無尽蔵に詩や音楽を再現する可能性に、自由な子供のような精神にあることです。

それは、いくらか社会のルールを超えた美の精神だということです。 美は、子どもの様な精神、 美は、子どもにいつも天使たちはささやいているということです。 そのことに気付いてほしいと思います。 そして、自分を裁かず、自由な精神でいてほしい。 そして、誰も裁かない事です。

神がいつもあなたのそばにありますように。

天使たちの音を感じ、 詩や音楽に天上の波動を地上に流し、地上を浄化してくれれば世界はきっとよくなります。 芸術は祈りであり。表現です。 生きている限り表現する事です。 自分を開放して子どものようになってほしい。それが幸福の門を通る事になるでしょう。 もし、ご自分の中にどす黒いものがありましたら原稿用紙に書いて出して行きいきましょう。 出していく中で、浄化されていく事でしょう。

自分の感情を開放してください。 自由になって下さい。 あらゆる奇想天外の現状も出していくことに浄化はあります。 嵐はそんな続きません、一時期の迷いです。 明日になれば、水面は穏やかになるでしょう。 しかし、その作業をしていく中で、神を想い、祈りをもって悔恨しつつ、悔い改める事です。芸術の神ゼウスはあなた方の悪い感情をその雷をもって清める事でしょう。

芸術を志す者は、まず、最低限、天上の神を信じ仕える態度で生きて表現する事です。 でも、この現代それが難しいのはわかっています。 しかし、それでは進化の道は閉ざされるでしょう。 精神はいつも神を見上げなくてはなりません。 神と共に生きる事が真実の生き方です。神はいつもあなたのところに歩いています。 美しき心情をもって、美を表現していきましょう。

なにもむずかしいことはありません。 いつも、神に語りかけ、芸術作品を作り、日々の生活には愛と美を表現して周囲を幸福を与えていきましょう。 それが、芸術家の精神であり、美学の精神です。 神を信ずることなくては、すばらしい時代を揺り動かすような作品はできないでしょう。 これから、必要とされている芸術は、天上のイデアを表現する芸術であるということですから。

3、技術

美学において技術とは、芸術の方法や美的な表現というかもしれません。では、芸術を作る人の基本的な哲学的な技術について語ってみたいと思います。

とくに、絵画、詩、音楽をモデルに語って行きますが、そのアーティストにとっての精神を前の「美学」と「精神面」の2節で語ってきましたが、技術に関していうことは、天の意志で材料と道具を自在に使えるようになることだと思います。

音楽は楽器を、詩は言葉と文章をもって、絵画はもっといろんな材料を用います。この三つの技術についてもなかなか一日二日でできるものでなく、長い年月の修練が必要です。それは、どれも職人技だと言ってもいいと思います。

芸術の習得は、長い修練が要ります。では、どうすればいいか。どうすれば、芸術の技術を自分の特技にするか。それは、芸術の技術を身に沁み込ませることが大事です。自由自在に使えて表現ができることです。しかも、書き続ける、楽器を奏で続ける、キャンバスに絵を描きつづけること、道具を自らの生命エネルギーから出るエーテルを芸術の技術に染み込ませて、自分の第6感にしていく。一つの器官にしていく。そして、作品すなわち自分の魂、精神とさせるために、霊を塗り込む。愛を塗り込める。そこには天と通じる境地がある。そして、精神には、法悦の境地にあること。その法悦の中には、自分はいない。心には自分がいない。あるのは、真剣に取り組むように第三者から見えるが、芸術の法悦は、天と一体となった自分と神仏が一体となった制作態度の中に、技術が光って来るのです。そして、演奏に、執筆に、絵画制作に天上に神の祭りが行われる。

芸術の技術は、その芸術の行為において無尽蔵に進化して光る。制作の中に光って来るのです。

演奏のさなかに神が降りる。執筆の詩作に神の世界を見ている。塗り込める。無心に神を塗り込める。神がかる演奏をする。詩作は筆が勝手に動く。芸術の行為は、天上の天使たちとその芸術を表現している。/p>

芸術の炎は、炸裂した情熱と、鑑賞者を感動させたいという愛。稲妻を落とすようなきらめき。こういうのが美学における芸術の技術が光るのです。芸術家は技術があるが、芸術の制作行為の中に光るのです。

普段は放心しているが、演奏や制作、執筆の時は、彼に神々や天使たちと共作をしているのです。その状態にするには、素直な心、素直な気持ち、澄んだ水面のようにして神を信じ受け入れる。そこから、芸術はできるのです。それは預言者のような態度であります。 まずは、心を清める事が大事です。

まっすぐに生きるべきです。

そこに、欲は無い。

自分の心を開放する。

そのためには、日々、清い生活、穏やかな心、人に対しては愛の想いを忘れない事です。

そして、笑顔と笑いを大事にして、日々の生活を生きる。

しかし、制作、演奏、詩作のときは、本気で芸術行為をしていくのです。

普段は放心してもいい。

やるべき時は、やるのであります。

つまり、芸術の技術は、基本的な修練が基本ですが、その上の創作という方向になると本気の想いと、神への絶対的な信仰心の制作態度が必要です。

基本的な技術を学ぶことも大事です。その基本を学ぶ時ですら、自由な情熱が必要なのです。

一瞬一瞬の制作を大事にすることです。

一瞬一瞬の演奏に無心になる。

一瞬一瞬の詩作にイデアのイメージを具現化していくのです。

それは、神に一直線に向かって上昇しようとする飛翔と情熱であります。

4、抽象とイメージ

さて、抽象とイメージについてですが、それは、意外に身近にあるのです。われわれは、普段、物を見ていて目で見たものを見ている。しかし、それ以外の世界もあることを芸術は教えてくれるのであります。そしてわれわれは、芸術は精神から、芸術はイデアから、神々の世界から来たことを知りましたが、この地上に生きている中にも心の世界が現実としてあることを否めないと思う。心は脳みそだという方もおられるかもしれないが、これを何て言おうか、心は霊的な意識、霊体が肉体に宿っていてすっぽり入っている。そして魂が霊体の中心の心臓部分にある。霊体に意識があり、霊肉の二元論があると知りましょう。その霊意識は、神の分霊であり、神の意識の分身で、我という個性を持っている。

  

その霊意識は、人格を持っていて、神と、宇宙の根源神とつながり、われわれ存在すべての者は、つながっているのだということ。そして、抽象を語る場合それは観念であること。 観念は形にも言葉にも表現できないイメージであるということ、そして、それがインスピレーションの可能性と根源になっている。観念はこの地上の表現するとき、地上の言語で表すには、地上の言葉、言語に翻訳する必要があります。そして、絵や音楽に表現することができます。イメージとは映像として表れ、実際にキャンバスに再現されます。そこに、いかに奥の底の観念を見て感じるか。まずは、感じる事が大事です。

美学とは感性学でもあります。感性でもって観念を感じ、絵や詩、音楽にしていくのです。

イメージには神の啓示があります。観念には神の心があります。それを出せるようになるには、やはり、それを許して行かねばなりません。自由になってその観念とイメージを受け入れて、信じる事です。

自分の心から出現する観念の夢を知覚できるようになるには、自分を自由にして心の世界、神の世界を受け入れる事です。信ずる事です。信仰の力がそれを可能にしていくでしょう。もし、自分には信心がないとおっしゃるなら、心はあるはずです。心の中に、自分に嘘のつけない究極に真の自我を発見できるなら、それを大事にしてほしい。観念を理解するには、普段から、観念の世界を知覚して訓練するといいでしょう。

とくにクラシック音楽は訓練にはいいと思います。音楽には形がありません、しかし、なにかを描写したり、精神の世界を表現していることがありますので、音楽は抽象でありイメージです。詩や小説などの読書も文字で読んで、情景や人物の心の状態や、動きを理解するので抽象であることは言えます。絵画は、これは具体的な客観的な抽象であると思います。絵の具の色、筆のタッチなどは、画家の精神が雄弁に語られているのです。具象画も実際には無い色や形や構図を描いています。そういう意味では抽象でしょう。なぜならば、その絵画は観念とイメージが何%かインスピレーションが込められているからです。やはり、観念からやってきました。抽象とイメージは、観念から来た神の世界からの啓示となった知恵であり。それを理解し観念の柱を心でとらえて共に生きれば、無尽蔵の芸術制作が可能となりましょう。

抽象とイメージは、神の世界を知る事であります。

5、感性

感性ということで演題を選んでみました。美学にとって感性は生命線のようなものです。 美学は、哲学の領域ですが、感性を哲学する事になっています。

最初の方で美学について語りましたが、感性をどう表現するかというと、例えば花が美しい。これは誰でも認めるところです。事件があって悲しい。誰かが不幸になってかわいそう。誕生日プレゼントをもらって嬉しい。花をもらって嬉しい。男の子から告白されて嬉しい。

このような人生において嬉しい事、悲しい事、怒りを覚える事、恋にやぶれて哀しいと思う事。いろいろな感情が私たちをおそう事でしょう。しかし、そのなかに芸術の面白さがあるでしょうか。人間の感情も、この感情がある。花は美しいと最初の方でいいましたが、それは誰が見ても美しい。天上の美はだれでもまぶしいかもしれません。美のイデアは、天上にある。

美の認識は実は宇宙の根源神が作った美的感覚だということと初めに言います。また、屈折した美もまたあることです。それは個人差があるかもしれません。美感覚は、人によって違っても大方その根源的なプロトタイプの美は変わらないのです。  また、感性ということで、人間は悲劇には敏感なようです。すべてを失うのも怖いものです。その不幸のどん底におちいる物語のあるのもある。その悲劇の存在の人間は心の奥の奥に埋没し、人生を深く考える機会を得るのである。

感性は普段は安心を求めるでありましょうが、実はいろんな浮き沈みの深いもので、感性によって人間は神の感情の原型を見るのであります。

6、まとめ(美学)

美学をまとめるとして、また、書いてみようと思います。美学における芸術活動の本質において、やはり、精神ということが要になっていることが言える。そして、精神は観念の世界に通じていて、宇宙の流れの中で、心の中に観念の柱がある。そこに、美感覚があって、それを言葉に翻訳して、それを人々が芸術家の作る作品を見て、美を感じる事、日常の生活の中で、生きていく中で、美の感覚がよみがえってくる時に、善悪を超えた美を再現する生活があるのである。

美は、あらゆるものを感性で世界をとらえ、自由にしていく、人間を開放する可能性になる。美には愛がある。しかし、そのように綺麗ごとで済まない場合がある。自由や開放を言っても、人間の心の奥の奥を探って、いざ作品制作に挑戦してみると、罪ある自分のあることを知るでありましょう。

その罪の意識は人間の原初の記憶で、宇宙の歴史であります。人間の個々人の意識に神へと通ずる、根本の仏へと通ずる通路があるということです。そこに、芸術のインスピレーションが内在している知があることが言えるのです。なので、自分の魂を表現する際に、物語のイメージ、思想のイメージ、知識のイメージを開放していく。開放していく中に、自分からそれを押し出すことも大事です。

美学として語るのも、まずは、自分から表現する。表現するとは、心から出る天上から来る、イメージを表現して行く、押し出していく。もちろん芸術の技術もそれに付いてくる。描けば書くほど、可能性も絵画も詩も展開して、運命も変わっていく。美は天上から天より降りてくるインスピレーションであり、人間のふるさとであり、そのふるさとは、原初の記憶であるという事。それは、神と共鳴する意識であること。美のイデアはすでに、生命に内在している。それは、神への道であり、神に近づく永遠の旅が芸術の制作であり行為であること。その、美学は芸術作品についての立場で言いましたが、すべての人にこの美意識というものがあります。

感性によってそれを感じ、神の意識を、イデアを表現する中に、美を日々の生活において感性で感じ、表現して行くとき、人生は美しく、自らの生き様を表現できる。

それは、善も悪も超えた、芸術的な美であること、それは、社会の規範を超えているかもしれない。枠を外れているかもしれない。

美は、時に、社会の中に溶け込むこともあれば、社会の規範を超えることもある。それは現象にしか過ぎないが、美はすべての人に内在して、生きることをもって、神を表現する。芸術を表現する存在の生命である人間、神の子がある。人間は、神の子である。芸術は神の創造の表現であり、神は芸術家であります。そして、神は芸術であるということ。

  

神は芸術そのものである。芸術は自分を許し、心に内在する天上の美を表現する。美における感性によって神の意識に共鳴するには、自分を開放して、芸術を表現する。かつての救世主が語った「神は愛」なりと世に神の証明したものがあった。それがゆえに、神は愛である。芸術は、世界に対する、すべての存在に対する愛である。

芸術と愛が一緒になる時に、あらゆる面で自由になる。自由になれば、神である愛を自由自在に表現できます。表現が芸術であり、創造に愛が内在している。なぜなら、愛深き者に芸術が宿る。すべての美の基本に愛がある。愛は、美によってさらに美しく輝くのである。

愛は宇宙に遍在する無尽蔵のエネルギーである。そこには、美がある。愛と美を悟れるあなた方を願います。ここでひとまず本章を閉じることとしまして、まだ、言い足りないことは他の章で語って皆様にお届けしたいと思います。

ここまで読んでくださり感謝します。

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