本多裕樹 白銀の夜明け

本多裕樹作品選 2 

「レダと白鳥」

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レダと白鳥 作画・本多裕樹

はべらう女たち、月夜の昼に妖しく艶かしく。中心にある王冠を頭にした白鳥はオリンポスの神であった。花をくわえて美しき少女たちを口説こうとしたが、レダなる女はねそべり白鳥を弄ぶ言葉をかける。もう一つの月が満月であらゆるパラレルワールドが異次元の扉をひらく。オリンポスはあったのか、なかったのか、白鳥は自らの正体を表すこともできず、ただただ女に弄ばれる形となった。王冠のみがオリンポスの王の証明であることは確かであったが、それを知るレダではなかったのだった。

「セオリア」

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セオリア 作画・本多裕樹

秘義が、秘教の可能性が形而上学のこの図に展開されている。象徴を表している。ここに見よ、そこに思えば限りなき宇宙を観念において感じるだろう。日が上って、月が天の女王になったころ、輝くイデアマテリアルが降りてくる。我らに見えるそのセオリアはかつてのゼウスの御姿であり、また過去の文明のレムリアの聖者エレマリアであった。はるか白鳥座のかなたからやってきた主であり、知恵と哲学、芸術のマスターその方なのであった。

「聖典の象徴」

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聖典の象徴 作画・本多裕樹

彼女たちは聖典の女神たちであり、ユダヤの女神がタルムードを手に持つ右の方は太陽の主を崇め、キリストなる女神は中心に臨在しイバラの冠を頭にかぶり十字架を持ち祈る、左の緑の服の女神は月が主人でありクルアーンの象徴の女神で聖典の体現せる祈りをしている。左端の石柱に横たわり楽器を奏でる方はダビデ王であり、聖典の女神たちを賛美して、ユダヤ、キリスト、イスラームを讃えているのだった。この3人の象徴の女神たちは、同じ聖典を持ち同じ主を王としているのだった。

「パリスの審判」

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パリスの審判 作画・本多裕樹

女神たちは、意義のある婚礼にて現れ美しき姿をもって我らに問う。私たちの中で一番の美女は誰か?私であろう妾であろう、いや、わたくしですと、左からアフロディーテ、アテナ、アルテミスがざわざわとしている。天空より来たるパリスは選ばれ、この中で一番の美女を選ばなくてはならない。この中で一番の美女を選ぶ権威を天空の神より受けた。どちらにしても波乱で喧嘩の原因となる。選んでも選ばなくても波乱を発生させる。しかし、選ばねばならない。天空の神よりその権威を与えられ命じられた。そしてパリスは出現し、女神たちは私こそその人と信じているのだった。

「オルゴン大如来」

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オルゴン大如来 作画・本多裕樹

はるかオリオンより来たる法学者はさまざまな姿をしてこの地上に出現する。彼は、大天使メタトロンでありその可能性からあらゆる神の補佐をしている。このマスターは、マイトレーヤーであり、聖クザーヌスであり、弥勒であった。聖なる意識として顕現する主である。その御姿は多様であり、法の存在で、神の御心を具体的にして人々にインスピレーションを送る観念的な存在である。神の心を知ろうとする人にオルゴンの霊感が降りて世界を良くしていくアイデアが湧いてくるだろう。心が神がつながる時、法としてオルゴン大如来は臨在するでしょう。

「地球の母 ガイア神」

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「地球の母 ガイア神 作画・本多裕樹

すべてを慈しみ、その愛を体現する神なる世界、世界はガイアであり、地球である。すべてを生み出し愛し、神々の主である。神々をも愛し養い、意識なる観念的概念は我々を愛している。私たちが地球を痛めつけ、殺伐とした世界を作り汚し、悪い想念を湧き出る人間を神々を愛し、たとえ傷を受けてもそれを見守っている。今や地球は病気でその原因は神々と人間の悪行の為せること、それでもガイアは裁かず人類の文明を最後まで養っている。大地の城にウラノスの門とテラの門がある。与えられた道を行くものに真実が伝えられ、世界の始まりと終わりを知ることになろう。人類は終わりになっても争い続けるのだろうか、最後を最後として終わりを受け入れるのだろうか。

「世界を見通す目」

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世界を見通す目 作画・本多裕樹

ピラミットの中に目があり、そこから天空の知恵を得る。そこを通って全てを見ることが可能なのだ。ヒマラヤの修行の最後の試練において、これを感ずるだろう。地上で見る世界も、全てを見通す目は世界のあらゆる知恵を体に染み込ませ炭素の肉体から結晶の肉体に変わる要(かなめ)になっていく。これを悟りといい、その世界を見る人はいつでも天空の知恵を得るだろう。そうして人は目を悟り、世界を見通す目を開眼するのだった。

「ローマの恋花をわたす」

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ローマの恋花をわたす 作画・本多裕樹

二人の密会の男女、恋はこの貴族のようであり、花を手渡しなることをローマの兵もこれに礼拝し、恋の神秘にひざまずくのであった。海はマリンブルーに広がり神殿では神託が降りる。赤く染まる土は暖かく草木の群生し輝く空は二人の男女を神のように称える。空は春のようであり、秋のようでもあり、平和がこの恋によって世界に広がる夢に私たちは感じ知るのである。そうしてローマの元老院たちも理解したのであった。

「マチス的画家」

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マチス的画家 作画・本多裕樹

原色で描かれた色彩、色の純粋さに画家はキャンバスに向かい絵を描く。海のむこうまでつづく可能性、十字架の帽子をかぶり信仰を表明しながら絵を制作している。パレットも木枠も中に舞い、平面化された画面に色面を配置された絵であります。私はこれをフランスの画家アンリ・マチスの野獣派フォーヴィスムをリスペクトして制作したものです。

「ピカソ的画家」

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ピカソ的画家 作画・本多裕樹

すべてが分解され、分析されてバラバラの画面に立体を見る。あらゆるものが簡略化されて、色も控えめであるが形はバラバラの破片を構成して画面にまとめ上げる。画家は絵を描いているがその姿は異次元のようであり、現実であるのか現実でないのかはこの絵を多重多面的に見ることができます。スペイン出身のフランスの画家パブロ・ピカソをリスペクトしてこの立体(キュピスム)を私なりの解釈で描いてみました。

「光の柱三神」

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光の柱三神 作画・本多裕樹

中東で信じられ、それからはるか世界に広まった概念は三つの法門を創設し、それは一人のの者からはじまって今でも影響力のある指導者である。この存在は非存在であり、しかし存在することも可能で「ありてあるもの」なのである。この概念はあらゆるところに出現する。天上界にて、ヘリオスの光が大地に降り注ぎその光を調整する働きをする意識、または概念は今日も大地を守護しているのだった。

「風神図 左隻」

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風神図 左隻 作画・本多裕樹

風を起こす精霊、または神格化された現象は古代において神の怒りか慈悲の現象であった。この風神図は風の暴風を描いたもので時折、雨も降らす現象は精霊の生きた姿であり、その光たる神の性質としてこの世界に風でもって空気をよく巡らせ、生きているこの地球の運営を助けるしもべでもあるのだ。この作品の意図は琳派における俵屋宗達につながって現代的に表現したものであります。

「雷神図 右隻」

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雷神図 右隻 作画・本多裕樹

雷を起こし、ゼウス神の怒りを表現するある種の現象は輝く色彩と重い色彩がぶつかり合い火の粉が舞い散り雨風を起こす。精霊たちはちらされ砕け散るのだがまた再生する。雷神自体も現れては消えて、発生しては消滅していく。いつしか神格化されて天空の怒りと慈悲として表現されるようなっていった。この作品も俵屋宗達の流れで日本美術の伝統と中東の壁画をミックスさせた現代の雷神図となっている。

「魔導王と総主教の決戦」

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魔導王と総主教の決戦 作画・本多裕樹

かつて光の戦士であった者もマギア(魔術)の指導者になった。そうしてこの世界の王となり、戦いに明け暮れかつて所属していた光の戦士団を打とうとした。ある別の勢力、宗教勢力から出た戦士がマギアを習得して魔導王に戦いを挑み十年、ついに追い詰め魔導王とマギア決戦が行われその一瞬の決戦が起きた。どちらが打たれるか血を流すか。それはご想像に、

「愛の間」

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愛の間 作・本多裕樹

王と后が愛し合いその図が奥に展示されている。王族の夜はあらゆる思い出を詠じて壁にさまざまな思い出が展開している。ただ、思い出。その思い出こそ王の宝物である。朝の衆議場では政務をして、昼には国を周り、夜には書簡の整理をする。夜は、後宮に入り思いにふけるのだった。そんな日々の毎日に思い出だけが宝石より尊いのであった。

「愛の間 壁」

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愛の間 壁 作・本多裕樹

王の思い出の数々、パステル描かれた絵の数々は淡く儚く美しい、あたたかくさえある懐かしき日々に王宮の出来事は過去も美しい、人の過去は思い出したくないこともあるが、時が過ぎれば貴重な学びになると思う。過去に戻ることはできないが、思い出したり、今を考えて立つことも未来に生きる可能性になる。

「水面の光」

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水面の光 作画・本多裕樹

色は光の壊れた目で見た光、川を眺め、その水面に色がささやくようにきらめき反射する。川は流れ、太陽から燦々ときらめく光は水面に一つの音楽を奏でる。風の音、流れの音、ささやくようにささやくようにきらめくのだった。木の葉の風に触れた音がふと水面に流れ、ゆらめく。

「宮殿風景」

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宮殿風景 作画・本多裕樹

宮殿を歩いていた。太陽が燦々と海辺をきらめく、祝福の予感を覚え、限りなき光が宮殿を彩るのだった。

「川の流れ」

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川の流れ 作画・本多裕樹

ある日、ある時、散歩をする。川辺を歩き、空を見た。青く、爽快な空であった。川の流れを見た時、空の青が写っていた。川の流れは空を見ていたのだった。

「音楽の天使」

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音楽の天使 作画・本多裕樹

ペルシャの中東の壁画、ギリシアのフレスコにある音楽を奏でる天使は、天空の波動をこの世にもたらす。天より来たりて音の形を風のように、雷のように大地を慈悲でもって雨のようのふらすのだ。緑の炎を燃やし、かつてのオリオンの星を連想させる髪は芸術の色である。そうして中東からインドまでこの音楽の天使の影響は角笛でもって世界に光の音を吹き奏でるのであった。

「聖なる獣」

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「聖なる獣」 作画・本多裕樹

闇堕ちる大地に浄化をもたらし、四人の神が翼を持つものとして出現する。かつてない異形に目を張るも、限りない空を闊歩し蹂躙する。時は正午、福音の声が聞こえる。されあらば大地に預言による警告が降る。彼らまたは彼女らには性別は無く男神のように勇ましく、女神のように優美である。福音はマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネによって語られるイエスの言行録で、天使たちの食物であり、人類にとっても祝福となり、不運にもなれば幸運にもなれる。その福音によって神々からの試練が与えられよう。それを乗り越える人は幸いなり、魔境の後にエルの光が汝におよぶことであろう。

「洗礼」

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「洗礼」 作画・本多裕樹

夕暮れと暁、朝日と黄昏が混在し、二人の少女が何を思う。翳りのある空と海の地平線、朝の聖なるひとときと、夕暮れの寂しさ、夜の終わりと、太陽の昇る空が二人を太陽と月を表しめる。この少女二人はお互いに星の聖者であり、天空からは聖霊の鳥がくだってきて少女たちを祝福し、聖なる使命へと洗礼をなす。帽子を飾り、花を飾り、お互いに補完し合う聖なる鳥に時の思い出がここに起きて唯、これからの使命においてお互いに知る。こうして彼女たちは二手に分かれて太陽と月の光を伝えるのであった。

「少女図」

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「少女図」 作画・本多裕樹

ただぼつねんと立ち、モデルとなって横目を流す、或る華族の家のお嬢様。夏の洋装を着込んで青い色に涼みを感じている。画家の方は一生懸命にキャンバスに絵の具を乗っけて私を描く。この絵が見合いの道具になるのかしら、ならちゃんと描いてください。まだ見ぬ殿方は私をどう思うかしら、夏の暑さの日々、セーラー服のような学生服、それを普段着にして正装にして何かしら思う鳥のさえずりに唯立ちモデルの相手をする。その瞬間の私が描かれたということ、思いにふけ夢に耽る。

「アフガニスタンに平和を」

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「アフガニスタンに平和を」 作画・本多裕樹

祈る。唯々平和を、古代の服を着た聖者二人、イスラームの女は祈りの言葉を伝え歩く。かつて王国のあったアフガニスタン、平和に満たされ人々がやさしい気持ちで生きていた。黄金の国であり、さまざまな栄華があった地に、人々が幸せに暮らし、女も安心して家族を持てた。男達は勇敢で商売上手、武器を持てば勇ましく争うこともない。あの頃とは違い、平和の法を忘れ去った人たちが自分の主義や欲のために人を不幸にして、国を不幸にしてしまった。力が全てとは、違うと言う叫ぶ女たちが祈る。ただ平和を、優しい世界を祈る。アフガニスタンの平和を、

「狂女オフェーリア」

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「ハムレット」シェークスピアより 作画・本多裕樹

エルノシアの平和を、国が乱れているのか、そうでないのか。王が突然亡くなり、子息が私に恋文を送る。王子であるし、そうでもなくなる。あの方ははぐらかし、恋文に、何か話しかけれくる。なんだかすごく感激しつつ、恋もしてしまう女心、それをもてあそんでおられるのでしょうか。私は遊び道具、結婚だって考えてはそれはできない現状の中、新しい王が即位して王子ハムレット様は戸惑い迷い、苦しんでいる、。私はどうすればいいの、あの方のことを考えるとダメになる。それでも恋をしてしまう。もう、とは言わずハムレット様は迎えにきてくださるはず、川に身投げして流されるまま、王子はやってくるかしら、

「祈りの婦人」

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祈りの婦人 作画・本多裕樹

はるか地平線の先にあの世の地である黄泉と冥府は待っている。そこにお連れしましょう。海の中に入り、その奥の先にあるは平和です。死はあなたへの祝福、それは人生を通した誉であります。祈りには平和と愛を、美しい草の香りがあなたを導くでしょう。意識の遠のく幽玄の夢は天上の栄華をあなたの喜びとなるでしょう。辛い時もあったでしょう。何度も死にたいと思ったことでしょう。あなたはそれらの苦しみと悲しみを乗り越えてここに来た。人生をまっとうしたあなたは素敵です。最後までがんばってこられたのだから、平和があなたにありますように、愛があなたを徳としますように、祈りましょう。幸いを、悲しみの中にあっても、苦しみの中にあっても、

「帽子の婦人図」

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 帽子の婦人図 作画・本多裕樹

フランスの貴族の家の婦人、少し緊張しながら絵描きのままに描かれていく。私をどう見ているのかしら、私はそんなに恋をしないわよ。でも、私をずっと見ているのはいかばかりか危険だわ。私はずっと見つめられるのが弱いのよ、時は19世紀、フランスのパリでシャルル・ボードレールが「悪の華」という詩集を出版した日、この時にあってこのモデルに立っている。近代の幕開けモデルヌの可能性にこの絵描きは新しいアールを描けるだろうか?見ものだわ。女性も社会に進出することがこの時代のチャンス、私はこの肖像画でもって変わるわ。

「猫耳婦人」

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 猫耳婦人 作画・本多裕樹

ただ、眺める。猫のようにでなく人よ、人です。否、猫です。(嘘)ただ、猫の耳の帽子をかぶって家を見ているのよ。一家に一人はいる婦人、一家に一匹はいる猫、それは平和だから、安心できる場所に、女も猫もいるもので、花を手にしては香りを楽しむ、魔法をたしなむこのご婦人、猫の考えていることがわかり、猫の言葉も聞こえるという。かつて昔、普通の少女であったが猫と話す能力ゆえに魔女の才能ありと知らされて一人単身、魔法使いの修行に出る。やがては少女から婦人になり、家を守りつつ魔法で多くの人を救済している。かつては私も魔法少女だったのよ、

「北欧婦人」

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 北欧婦人 作画・本多裕樹

まどろむ世界にカレードスコープの中を覗くように私は日々の生活を眺めている。北欧の貴族は、物憂げにじっと何を見ているのか。気安さと安心、それと緊張、花の付いた帽子をかぶり夏は暑いのだが、実はここは室内で戦士のような勇敢さはこの時代の誉れか。王族だろうと、そうでなかろうと私はこの婦人の内面を見ようと努力してこの絵に描こうとしている。なかなか手ごわいが、ふと自然体になった時にこの婦人の美を見出すのだった。肌は白く、目は青い、髪は黄金色であり、私はこの方を神として崇めつつ絵の具を作り塗り込んでいったのだ。少し微笑みかけてくれるのが嬉しくてつい必死に描いて仕舞うのだった。

「二人」

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 二人 作画・本多裕樹

ふとした風に昼なのか夕方なのか夢の世界に迷い込み、果ては知らず暁と月夜を同時に見ていた。二人は昼の世界を選ぶことないために、夜を選ぶ。月に魅せられて心、安らう。少女二人は何を思うのであろうか、海にゆられかすかにも蒼き空を望んでいた。夜の夢に、またお茶を二人で飲み交わしたいとゆっくりとした時間を過ごす。こうして、二人は昼の青空を希望しながら夜を、月を楽しんでいる。月の魔力に心惹かれるのだ。ある国の貴族の出の二人、そろそろお別れも近い。いずれどこかの家に嫁がれ、家を守っていくのだろう。この月と太陽の空を二人は一生忘れないし、こに時間が永遠に続けばいいと願うのだった。

「月夜」

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 月夜 作画・本多裕樹

月を眺めて、遠くを思う。山岳の壁もまた奇石多い景色に見えるものである。かつてこの地に何があったのだろうか。漁をする人もいるし、川遊びする人もいる。月夜は輝く空の下、光で満てるものだ。古代の遺跡からは神託が降臨し、川の流れを作る。山々も聳え立ち草木を繁茂し生き物も安らう。君はこの図を見てどう思われるだろうか、見れば遊べる想像の図に僕は思うのであった。

「待つ人」

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 待つ人  作画・本多裕樹

夜も近いのか、夕方なのか、真昼の深夜の生優しい空気にけだるさもあって日々を過ごす正午のような夜のような深夜のような微妙な時間。お昼ご飯もまだであるが、ただ待ち人をする。恋の相手を待つのであるが早く来すぎた。あなたはどう思うかしら、こんなに早く来た私をみて。空をただひたすら眺め、少しモジモジして落ち着かない感じにどこにいく宛もないデートの時間を過ごすことが夢なのかしら、時にある時プレゼントでもらった黒曜石の腕輪は素敵だったよ。風の誘いも受けながら彷徨い待つ真昼の深夜。

「座る人」

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 座る人  作画・本多裕樹

ある昔の昭和の時代にカフェに寄し女子は銀座の街を歩きながらその情景を楽しむことができたのだ。これから待ち合わせでここに来た。ある瞬間に來し客に女子はゆっくりと座る。その姿を見た私はその女子の所作に美しさを感じた。ただ座るだけであるがそのヒップに否その女性性の美のこなしに魅力を感じたのであろうか。冬のある日の思い出をその座るという行為の所作に女性の美学を覚えたのだった。日本には茶道という禅の仏門がある。あらゆるお点前に日本の美が現れている。かつての昔の昭和で見た銀座の女子はその茶道の精神の所作を感じた。むかしむかしのことだった。

辰年 本多式龍の図

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個人蔵・山口コレクション蔵 、作画・本多裕樹

龍年 

 新年は明けた。そこから始まるべき可能性が様々にあるでしょう。私にとっても皆様においても、明日が明るかろうと暗雲だろうと、未来を信じて、前へ生きるしかない。生きて、しぶとく、辛くあっても、生きるしかない。生きる日々の1日1日において必ず得るものがある。困難を通して学ぶものがあり精神の発展もあるから、今日という日を懸命に生きて、余裕があるならお酒を飲むのもいいし、一息してもいい。醜くくも生きても良い、ただ生きて日々を懸命に人生に挑めばいつか必ず光明の見えることもあると信じて、、、石川県の能登の復興を祈っています。そして、この時代に生きる私たちはいつか素晴らしい世界が実現すると信じて、今を、この困難な時代でありますが懸命に生きて良き世界を一人一人の努力と幸福によって作っていきたいと思います。

令和6年1月4日 本多裕樹より

かず子「太宰治 斜陽より」

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かず子「太宰治 斜陽より」 作画・本多裕樹

少しにやけながら、貴族の家の生活で、浮世に流れて浮いてくる日々、風もあろうし、そうでもあって、風の流れをロシアの劇作家チェーホフの「桜の園」を思わせる。屋敷は追われ、誰かの手になって、少しずつ、少しずつ、資産を失っていく。働こうにも女性だけ、弟の直治は酒や薬の中毒に、かつて栄をもって華やかなる貴族もだんだんと落ちぶれていく。それでも生きて革命を起こさなければならない。かず子にとって革命とは恋であった。その状況の中、浮世離れの世間への顔は笑顔であった。すこしはにかみながら、東京の小説家に会いに行く。その果てに何があるのだろう。

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